書店TORCHのブック・エッセイ #04『あなたの燃える左手で』 2024.10.2
本屋という、接客業の一種を営んでいるくせに、喋ることが不得手なのでなかなか思うように本の紹介ができず、いつも苦悩しているのだけれど、この小説はとりわけ口頭で説明するのに苦労している。
それだけ紹介したい想いはある。けれど、一見すると遠く離れた複数の題材を、凄まじいダイナミズムで繋ぎ描いている小説なものだから、いそぎ足に口頭で説明しようとしては、不甲斐ない思いをしている。文章という、もう少しだけ推敲と長さが許されるこの場を借りて、紹介を試みさせてもらいたい。
舞台はハンガリーの都市・デブレツェン。日本人青年のアサトは市内の病院に内視鏡技師として勤めていたが、ある日、誤診により、健康な左手を切断されてしまう。激しい幻肢痛という後遺症に苦しむアサトへの治療として、他人の手を移植する手術が行われる。
身体を「切断される」「失う」「繋げられる」といった行為を通じて、アサトの身には喪失による苦しみや他者(の手)への拒絶、混じりあいによる変化などが訪れる。それは個人の身体についての描写であるけれど、同時に、アサトが住む中央ヨーロッパで繰り広げられてきた、国境の分断/侵犯/併合といった事象に重ね合わされてゆく。アサトの妻・ハンナの出身地であるクリミアや、彼女が行き来するウクライナ東部で行われてきた/起こっている事象が、多重露光の写真のように浮かび上がってくる。
例えば、2014年の出来事を回想する場面では、ロシアに併合された故郷のクリミアから脱出する列車で、ハンナはアサトの失われた左手を撫でながらこう呟く。
「カワイソウナ、テ」
とたどたどしい日本語で呟いた。
「イミモナク、キラレテ。カワイソウナ、ウデ。イミモナクノコサレテ。フタツハ、ツナガッテイタモノナノニ……」
ー『あなたの燃える左手で』朝比奈秋(河出書房新社)
生まれてから、当たり前のように自分の場所であった土地。それが分断され、奪われていく目の前の光景が、夫の失われた左手に重ねられてゆく。
また、この小説では、語り手のカメラが主人公のアサト以外にも渡され、複数の視点から綴られる。いくつもの主観により紡がれる事象は、それぞれの語り手にとっての事実である。しかしそれらも、おぼろげな記憶や揺らぐ自己に基づいた、危ういものでしかない。
俯瞰的に(鳥瞰的に)見る、という言葉がある。物事を広く見て、全体を把握する、という意味で使われるが、その観察者は、やはり全てを知ることはできないのではないだろうか。
どれだけ高い位置から見下ろして、景色を端のほうまで視界に収めて見ることができたとしても、その死角に、実は深い深い裂け目があるとか、凍てつくような冷気が立ち込めているとか、とんでもない生き物が潜んでいるとか、そんなことを見落としたりしていないだろうか。
その視点の位置が高ければ高いほど、そこに確かに存在するはずの、一つひとつの哀しみや喜び、怒りは、見えなくなったりはしないだろうか。
そんなふうに、全てをわかったような気になることを、この小説は許していないように感じる。途方もなく大きなテーマを扱っているが、視点はあくまでそこに生きる人間の目線の高さに保たれる。それでいて、カメラが次の人物の手に渡されたら、見える景色は全く違うものになるのだ。
登場人物たちの、それぞれの痛みや哀しみ、嫌悪や恍惚を、読者はゼロ距離で追体験する。それはひいては、遠く離れた場所で、大きく括られたがゆえに見えづらくなってしまったもの、その中にうごめく一つひとつの生を想起させうるものではないだろうか。
国境や歴史、民族といった巨大なくくりのものを、ひとりの人間の手をつなぐ、小さなちいさな血管や神経、細胞のすがたに重ね合わせ、読み手の想像力を掻きおこす。ある種、物語ができる最大級の反撃を、この小説は実行しているように感じた。
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